25になること

 

恥も外聞も捨て、マッチングアプリを始めた。先月、齢をまた一つ更新し、25歳となったわけだが、今ままで臭いものには蓋をしろ精神で、ずっと見て見ぬ振りをし続けて来た自分という存在に、如何にもこうにも、向き合わざるを得ない年齢になってしまった。24になったときは、「まだ俺は、若い。なんとかなる」と思っていた。だが、25になった途端、「もう時間がない、彼女を作ろうとしないとやばい」と思った。彼女を作る、のではなく、作ろうとするというのが、ミソである。

 

 

環境を変えれば、何かが変わると思っていた。だが、全く新しい土地で約半年生きてみて思ったのは、環境は数あるパラメータの中の一つにすぎないということだった。俺の場合、問題となっていた変数は、環境ではなかった。環境なんかよりも、変えるべきなのは、自分の考え方であった。そのことにようやく、気がついた。当たり前といえば、当たり前である。引っ越しただけで、恋人ができれば、誰も苦労などしない。

 

 

もちろん、定職に就き、研究という名の無限無給労働から解放され、幾許かの、お銭をもらえるようになったという、ステータスの変化は、乾ききっていた精神に幾らかの潤いを与え、腐りきった心に少しの勇気を与えた。だがしかし、俺はまだ、一歩を踏み出すことをためらっていた。要するに、自信がなかったのである。傷つくのが恐かったのである。全くもって人間は矛盾した生き物である。ホメオスタシストランジスタシス、その二つが常に相剋しながら、様々な選択肢に決定を下していく。

 

 

どうしても踏ん切りがつかず、まずは煙草を辞めようと思った。我ながら、これはかなり聡明な選択だったと思う。恋人を作る(セックスをする)という目標に対して、その成功確率、時間効率を上げる上で、重要な要素であった。これまで色々な方法を試し、その度に、自分の不甲斐なさに嫌気がさして来たが、どうにかこうにか、今、1ヶ月半の禁煙に成功している。結句のところ、禁煙において重要になるのは、小手先のテクニックではなく意思の強さである。と、偉そうに言っているが、よくよく考えてみると、童貞のヘビースモーカーなんて、どうしようもない、ただのカスである。

 

 

さて、そうして、いざ初めてみたマッチングアプリだが、現実は想像していたよりも厳しそうである。まず、プロフに載せる写真がなかった。ロクに友人のいない俺には、自画像に使えそうな、シャレオツな写真が一つもなかった(自分が全くシャレオツでないことが一番の問題なのだが)。唯一アルバムのフォルダにある写真といえば、寝癖まみれの死んだ目でカメラを見つめる、家族写真のみ。こんなものをプロフに使えば、釣れるはずの魚も釣れないだろう。まさしく、針をつけずに、糸だけ垂らすようなものである。土台、そんなのは無理な話なのである。

 

 

仕方がなしに、サークルのグループラインにあるアルバムから、数枚引っ張って来た、なるべく写りの良い写真をプロフに使うことにした。もう3年も前の写真なので、下手な画像加工と同等なプロフ詐欺に値すると思われるが、まぁ、大目に見て欲しい。

 

 

初っ端の感想としては、やはりというか、想像していた以上に、スペック合戦である。女性側の内訳としては、明らかな美人が2割、曖昧な美人が6割、絶対に触れてはいけない社会の闇が2割といった感じである。明らかな美人と社会の闇には、はなから眼中にないとして、6割を占める曖昧な美人といかにマッチングできるかが鍵となる。余談になるが、検索機能で、ハンターハンター好きというフィルターをかけた時が最も社会の闇に当たる確率が高かった。

 

 

今のところ、始めて3日で70人ほどにいいねを送ったが、マッチしたのは一人のみ。その一人も、返信がこないので、実質0/70である。ちょっと自信がなくなる数値である。おそらく、高身長イケメンに女性側のほとんどが集中しているのだろう。それは全くもって当然の話である。何も思わないといえば嘘になるが、正直、嫉妬で全身が燃えそうであるが、それだけは本当にどうしようもない。結句のところ、男も女も、与えられたカードで戦うしかないのである。最初から手札の強い奴もいれば、最悪の手札から始まる奴もいる。羨ましがる前に、頭を使って、対策を練ればならない。幸い、頭脳だけは、そこらのヤリチンには負けていない。(と信じたい。

 

 

 

日も暮れて来たので、今日はこの辺で。また何か進展があれば、書くとする。

 

秋に沈んでいった女の面影を断ち切り、ようやく、新たな一歩を踏み出した。25という数字が一つの転換点になることを願っている。どうしようもなく無様な人生にさようなら。虚構でもなんでもいい、いい加減、人並みの幸福を手に入れたい。三島由紀夫は言った。たとえどんなチンケな目標でも、目標に向かって努力する過程にしか、人間の幸福は存在しない。