本を読む

 

何のためらいもなく、Tシャツの袖をまくりあげ、横を向いた俺に、看護師のおばさんんは、一瞬、不思議そうにキョトンとした。注射の後に、15分ほど、広間で待たされた。坊主頭の精悍な医者が、モニターの中で副反応の説明をしていた。本を読む者、携帯を眺め続ける者、だが、一番多かったのは、モニターを見ている人間達だった。それは、口には出さずとも、群衆が、少なからずの不安を感じている証左であった。俺もそのうちの一人だった。

 

 

 

その日は、寝不足であったことに加え、忌まわしき進捗報告の金曜日であったため、慢性的な疲労と、倦怠感が体を支配していた。そのためか、副反応らしきものは何も起こらず、次の日の朝を迎えた。

 

 

 

雨が降っていた。念のため飲んでおいた、抗アレルギー剤と、痛み止め薬のせいか、よく眠れた。こんなによく眠れたと思ったのは、本当に久方ぶりのことであった。休日の朝のコーヒーと煙草は、何でこんなにも美味く感じるのだろうか。どんよりと陰った窓の外を眺めながら、そんなことを思った。

 

 

 

 

一週間の後片付けと、次の一週間に向けた準備、それ以外、特にやることはなかった。昼を過ぎたくらいから、左肩が痛み始めた。夕方ごろには、腕が上がらなくなった。それと、何だか頭が茫洋とした。倦怠と、退屈で、ずっと、ベットに寝転がっていた。たまに起きては煙草を吸って、水を飲んでを繰り返し、左肩を上にして、いつもより少し早く床に就く。この日もよく眠れた。具合が悪い時は、否が応でもよく眠れるので、ありがたい。

 

 

 

 

少しばかり緩和した体の具合に、調子を合わせたのか、その次の日は、実に爽快な快晴であった。だからと言って、何か特別することがあるわけでもなく、一日中読書に耽っていた。早稲田の芋ブス女が書いた新刊は、一行目を読んだだけで閉じた。綺麗過ぎたのである。その日は、もっと、攻撃的で、ドロドロとしていて、鬱屈とした文章を欲していた。この、どうしようもない退屈と偏屈を、カタルシスへと導いてくれる、泥水の上を這いつくばるような、そんな小説が。となれば、選択肢は一つしかない。西村賢太である。結句、この人の本しか、俺は、今まで読んで、本当に心の底から、面白いと思ったものはない。よく、読書家気取りの、ブサイク達が、「読書の数」ばかりを自慢しているのを見聞きするが、バカも大概にしろと言いたくなる。貞操観念が崩壊した雌猿のように、股ぐらという名の、新刊ばかりを誰彼構わず開帳しては、そのご感想を得々顔で述べる。本当に、心の底から、好きだと思える本はあるのか、作家はいるのか。それを見つけるのが、読書だと思う。それ以外は1000冊読もうが、何の糧にもならない。一冊を何度も、何度も、それだけでいい。これだけでいい。何だか少し勇み足になってしまった。失敬。特に深い意味はない。

 

 

 

 

やっぱり西村賢太が一番オモシレー!と思っていたら、シルバーウィークが終わった。誰とも会話せず過ぎた三日間。山盛りの灰皿と、ボロボロの小説。腐った心と、またぞろに女の顔を殴り続ける最低最悪の主人公。それに共鳴してしまう、最低の自分。読書の秋ですねぇ。