「ピアノの横で待っています」
改札を抜けて、あたりを見渡す。雑踏の中にポツンと置かれたピアノ、その横に立ち尽くす一人の女性。紺のロングスカート、白のパーカー、ブラウンのコート。髪は後ろで一つ結びにし、肩から掲げている小さなバッグが蛍光灯の光を受けて薄く輝いている。
「〇〇さんですか?こんにちは」
「あ、こんにちは〜」
女性は、揉みほぐしたような、柔らかな関西弁で挨拶を返すと、「じゃあ、行きましょうか」といってゆっくりと歩き出した。「こっちですね」と言いながらさした指が白くて細長い。「保育園の時からピアノをやっていて、、、、」。電話口で話した言葉が脳内を抜けていく。「心の病、精神疾患を持った患者さんのリハビリをしていくのが作業療法士のお仕事です」。鉛色の空を見上げながら、「雨降らないといいですね」と女性が呟く。「多分大丈夫ですよ」とテキトーなことを言う。鳥たちが群れをなして高層ビルの間を飛んでいく。道端に落ちていたアメスピの空き箱が、気だるそうな顔でこちらを見上げている。
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コーヒーを片手に席についた。自然公園の一角にある一面がガラスで囲まれたカフェは雑多な年代で賑わっていた。萎れた観覧植物、木材と暖かな照明、ところどころにあるアウトドア製品はグラッピングを連想させる。
「25歳か。これから色々楽しい年齢ですね。お仕事にも慣れて、新しいコミュニティにも入って、、、、」
5歳上のその女性は、やけにしみじみと、空中に浮かんだ25という数字を見つめていた。数秒の間があった。
「今、昔のこと色々なんか思い出してました?」
「うん笑。ちょっと」
知りもしない人間の記憶にないはずのシーンや景色や言葉が頭の中を抜けていく。隣り合って座ったため、相手の顔がよく見えない。頑張って体をひねったら、女性の目元が星みたいにキラキラしていた。砂の上に宝石を散りばめたみたいな鮮やかな化粧だった。
コーヒが冷めて、公園を散歩した。昔飼っていた犬の話、兄弟の話、音楽の話。
「わたし、ちゃんと音楽が好きで。音楽だけは本当に大好きで。ずっと続けている。江川さんはどんな音楽が好きなんですか?」
坂道を登りながら、女性はそんなことを言った。風船を持った小さな男の子が元気な声を出しながら猛烈な勢いで走っていく。毛並みの綺麗な野良猫が木を登っていく。好きな音楽を共有する。それは同じ景色を共有するということだ。音の先にはいつも素晴らしい景色が広がっている。二人は一緒に坂道を登りきった。
「私、ちょっと疲れちゃったな笑。こんなに歩いたの久しぶりかも」
小さく白い息を吐きながら、女性はそう言った。街並みの先には海が見えた。
「あの大きな橋を渡るときね、最初にトンネルを抜けなきゃいけないんだけど、最初は何も見えないんだけど、そのトンネルを抜けた瞬間の景色が本当に綺麗なんですよ。もう本当にドッカーンって感じで笑。」
目一杯に手を広げたジェスチャーで、「ドッカーン」を表現した女性は、コンクリートみたいな不機嫌な空の下で、ドーナッツみたいな柔らかい笑顔を浮かべてみせた。
「なんかいっぱい歩いたら、お腹すいちゃったな。今日は節分だから、恵方巻きを買って帰ろう。あと明日の朝に食べるパン」
恵方巻きを頬張る女性の姿を想像して俺はちょっと勃起した。
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茶色の紙袋を掲げた女性に別れを告げて、イヤホンを耳に差す。駅に置かれたピアノの横で、若い男が誰かを待っている。旋律が始まって、記憶が逆再生されていく。音楽における”景色”とは、思い出の中にある幻想だ。女が男に声をかけ、二人は公園に向かってゆっくりと歩いていく。今日という日も、あの日のことも、いつの日か、私たちの現在は全て客観性を失って、音楽の中で幻想になっていく。
おわり。