日曜の朝

 

日曜の朝が好きだ。日頃は聞こえる、黄色いはしゃぎ声も、青いおはようございますも、灰色の喧騒も、この時だけは、聞こえない。風が緩やかに流れ、時間までもが、淀んでいるかのようだ。晴れていたら、なおのこと気持ちが良い。カーテンを半分だけ開けて、二度寝を決め込む。もし天国があるのなら、こんな静かな場所であるといい。

 

 

 

これで、起き抜けに、コーヒーを淹れながら、Maroon5でも流していれば、カッコがつくが、実際は、カビの生えたコップで水道水をがぶ飲みして、煙草を吸っているのだから、デカダンスもいいところである。今朝のナンバーは、ヘルシンキのメリールウ。

 

 

 

「今夜、全てのバーで」を肴にしながら、煙草を吸っていたら、一日が終わってしまった。行間や、語尾に見える、乾いた悲壮が心地よく、それでいて、たまにクスリと笑えて、なんとも暖かい小説であった。レトリックを極限まで剥落させた文章を書きながら、ここまで読ませることができるのは、ひとえに、中島らもの、人間性によるものなのだろう。

 

 

 

昨日は、買い物ついでに、ブックオフに行った。ダブっていた「こころ」を百円で売り飛ばして、高野和明の13階段と、車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂を購う。帰りに、スーパーで買った5食入りで、百九十八円の味噌ラーメンが、本当に冗談抜きに、味噌汁に麺を入れただけのようなもので、ひどく慊りない気持ちになりながらも、あまりにも不味過ぎて、笑ってしまった。

 

 

 

友達がくれた、日本酒を飲みながら、この文字を打っている。机の上には、トイレットペーパーの芯と、単語帳とメガネがあって、換気扇の回る音が、雑然とした部屋に、意味もなく響いている。青息吐息というわけではないが、最近はなんだか、体全体が少しだるい。フーテンみたいに、添加物ばかり食いまくって、滋養のあるものを何一つ摂っていないから、うんこまでもが元気がない。

 

 

 

 

最初は、休みだらけになって、一人歓喜の祝杯をあげていたが、この重っ苦しい世の中が、連綿と続くと思うと、最近は、「もういいよ」と思うようになった。桜が可哀想である。

 

 

 

 

「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみ注がしておくれ、花の嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」、中学生の時、寺山修司の詩集を読んでいて、知った言葉だが、今回、中島らもの小説にも出てきたので、改めて、意味を調べてみた。

 

 

 

 

どうやら、「花が咲いても、すぐに嵐が来て散ってしまうことがあるように、人生とはいつ別れが来るかは分からない、だから今この瞬間を大切にしよう、一緒に酒を飲もう、友よ」というような意味らしい。中学生の時は、特に意味なんて、考えずに、ただただ言葉の美しさに酔っていたが、本当の意味を知って、なおのこと好きになった。酔って来たので、ここら辺で、結びとしておく。乾杯(スコール)。

 

 

 

 


Maroon 5 - Sunday Morning (Closed Captioned)